日吉台はびわ湖と比叡山の景観に恵まれ、坂本や比叡山の歴史的文化遺産にも近く、少し歩けば里山の自然にも触れることのできる大津でも一番の(多分・・・)住宅地です。 「あらうんど日吉台」は日吉台周辺のスポットやお散歩コースを写真と共にご紹介するコーナーです。
千野地区は、大正寺川を挟んで北が千野1、2丁目、日吉台に隣接する南が千野3丁目と分かれている。 それぞれ本千野、今千野という呼称もあったようだが、今回は千野の中心的な集落である千野1丁目の辺りを歩いてみることにした。
「あらうんど日吉台 法光寺と那波加神社」と同じく、日吉台四丁目の通称通り抜けから出発して苗鹿方面に向かう。 4車線化工事中の湖西道路を潜ってすぐ左折し、再び湖西道路を潜って左手に比叡の山並みと田植えの終わった水田を見ながら少し進み、棚田の間の道(舗装路)を地図青矢印の方向に入る。
直ぐ右手に千野の集落に向かう急な坂道があるのでこれを上る。 大した距離ではないがこの坂が今回のコースの最もしんどい部分だ。 上りきって突き当りをV字状に左に折返し、集落を東西に貫く道に入る。 後に分かるのだがこれが元三大師(がんざんだいし)道である。
歩いていると 道沿いの民家の壁に、琺瑯製の旧地名版や薬の看板を見つけた。 地名看板は「雄琴千野町」で上に仁丹の大礼服マークと「仁丹歯磨」、薬看板の方もTVなどでは聞いたことの無い名前で、古い集落を歩いているとこういう発見もあって楽しい。 調べてみたら、仁丹歯磨は特に戦後は仁丹の屋台骨を支えた商品だったようだし、薬の方はパスミンという風邪薬は現存しないが、青ぐすり(胃腸薬)、赤ぐすり(解熱剤)は健在だった。
V字状の折返しから200m程、左側に石灯篭が2基並んでおり、その奥50m程のところに安養院妙見堂がある。 ここは比叡山延暦寺中興の祖といわれる元三大師(がんざんだいし:良源912-985)が、大師の近くに住みたいと願った母親の為に建立したものだそうだ。(大津のかんきょう宝箱) 元三大師は修行地である横川に向かう際に、母親のいるこの妙見堂に立ち寄ったりしたということなのだろう。
妙見堂から戻り、右手の家々の間から時折比良山を臨みながら進む。 左手にステンレス製の給水タンクのようなものが見える辺りで道なりに右に曲がり、さらに集落の周辺をぐるっと廻るように進むと、道は次第にびわ湖に向かうように向きを変え、これも集落を東西に貫くもう一本の道に合流すると左手に立派なお寺の屋根が見えてくる。 深光寺である。 大津のかんきょう宝箱によると、真盛上人の開基、創始は不明だが元亀(1,570年)以前とある。
隣の家の犬に吠えられながらつつじの咲く道を進んで本堂に向かう。 本堂に向かって右手に鐘楼があり、その先に深心(じんしん)の庭と名付けられた石庭がある。 この庭の「心」は実際に訪れて案内板をお読みいただくとして、よく手入れされた美しい庭であった。
再び犬に吠えられながら元の道に戻り、50m程東に進むと左手に2階建ての千野会館(町民会館)があり、その横に若宮神社の鳥居がある。
参道を進むと階段の上に拝殿があり、その奥に本殿のある立派な神社である。 神社の後ろは小高い丘になっていて、如何にも神様が居そうな雰囲気であった。 先ほどの深光寺やこの神社、千野会館などがこの付近に集まっており、旧来千野の集落の中心部分がこのあたりであったことを思わせる。
さて、お参りを済ませた後は集落の東端まで道なりに進む。 途中、雄琴小学校方面への道を左に分けるY字の分岐があるが、右に進んで150m程、視界が一気に開ける見晴らし台に出る。
この日は非常に視界が良く、三上山や近江八幡の鶴翼山(八幡山)はもちろん、遠く伊吹山まで遠望できた。
景色に気を取られて見落とすところだったが、この見晴らし台の手前に先ほど通った妙見堂の前を通る道への分岐があり、「左 元三大師」と書かれた石柱がある。 千年を超える千野の集落の歴史の長さを物語る道標である。